『幸福』は、個々人がどんな状態になることを追い求めているかによって異なるため、一概に定義することはできません。例えば、善であることの感無量な感覚、瞑想により得られた無の感覚、薬物による幻覚、健康(健全な精神)な状態、身近な暮らしのうちにある幸福等を挙げることはできますが、人夫々によって追い求められる「幸福」は異なります。『幸福』は人間が感じている「心の豊かさ」にも関わり、単に、経済成長して裕福さ(大量消費によって得られるモノの豊かさ)だけでは得られないものです。権力者が設定した統治制度によっても、地域や民族によっても、宗教観によっても追い求められる『幸福』は異なります。その土地に浸透した文化や風習によっても左右されます。更には、脳が感じている「幸せな感覚」というものもあると考えられます。『幸福』は普遍なものではなく相対的なものであり、相手の人間観や状況に応じて使い分けないと不要な混乱(コミュニケーション不足による意思疎通の齟齬と思われてきたこと等)が生じることになります。 以下は、[宇都宮芳明]
幸福とは – コトバンク (kotobank.jp) よりの引用(箇条書きにして掲載)です。
- 人間は生きていくなかでさまざまな欲求をもち、それが満たされることを願うが、幸福とはそうした欲求が満たされている状態、もしくはその際に生ずる満足感である、とひとまずいえよう。人間はだれしも幸福を求める。しかし、人がどのような欲求の満足を求めているかに応じて、幸福の内容もまたさまざまである。いわゆる幸福論や人生論は、人間にとって真の幸福とは何かを語るが、語り手によって幸福の内容がそれぞれ違うのも、ある意味では当然であろう。
- 感性的な欲求の満足にのみ幸福を求める人は、一般に快楽主義者とよばれる。この場合幸福とは感性的快楽であり、古代ギリシャのエピクロスがこの種の快楽主義を主張したとされ、そこから快楽主義者はエピキュリアンとよばれたりする。しかしエピクロス自身は、真の幸福はかえっていかなる欲求によっても心が乱されない境地(アトラクシア)にあると考えた。東洋では、悟りの境地とか無の境地といわれるものがこれに近いであろう。ここで求められているのは、感性的欲求の満足ではなく、精神的安定を求める欲求の満足である。ストア派の人々も、理性の指図に従って自己を支配し、克己禁欲的(ストイック)に生きることに幸福をみいだした。ストア派に限らず、総じて自己の人格的完成に精神的幸福を求める人々は、感性的快楽を低次の幸福とみなし、それを否定する傾向にある。
- 以上の見方はいずれも個人の幸福を主眼としているが、人類全体の幸福の促進を重視する倫理説もある。たとえば功利主義によると、倫理的によい行為とは、「最大多数の最大幸福」を求める行為である。この幸福には感性的快楽のほかにさまざまな精神的快楽も含まれるが、実際に多種多様な快楽の総和を計算で知ることは困難であり、今日では功利主義の原則は、快の増大よりもむしろ不快(苦)の減少に適用されている。つまり、地上から人類の不幸をできるだけ除去することが幸福の増大につながるとする見方であって、マルクス主義のなかにもこの種の見方が形を変えてみいだされる。なおカントは、幸福を直接目的とするいっさいの幸福主義倫理を退け、道徳法則に従う有徳な生活を重視する。有徳な生活はただちに幸福ではないが、「幸福を受けるに値する」生活であって、徳と幸福との一致も、有徳な生活を通じてのみ望みうるのである。
私たちは『幸福』を直接に知覚し自然科学に還元して社会科学として定義することはできませんし、観念として抽象的な意味を持たせて議論することもできません。また、個々人に帰するために普遍なものではないため、形而上学的に理性から導き出せる普遍的存在として議論することもできません。
しかし、「幸福でありたいという願い」は人間の根元的で普遍的な感情であり、「幸福でありたいという願い」を叶えることを「社会の存在目的」としない『社会』の定義はあり得ません。『社会』を社会科学として扱うとしつつも、21世紀になって、とりわけ人権が重視され多様性と包摂性を重視されていることに鑑み、「人としての幸福の追求」を「社会の存在目的」として内在化して『社会』の定義に据えることも、これからの『社会発展』に向けた検討課題にする必要があると言えます。